萌えは飽きたよ01/2003.02.20up


「萌え」とは何か
「萌え」とはなにか?ということを考えようとすると、どうにも困ったことが多い
そもそもこの「萌え」という言葉、定義が曖昧でどうにも人によって捕らえ方が違う。
「萌え」をどう考えどう認識するか?
オタクといわれる文化的種族(笑)にも今や世代間ジャンル間の溝は大きく
そのスタンスや価値観は多層的になっている。
それを踏まえた上での包括的な「萌え」に関する考察を何とか試みようと考えてみたものの、
各世代各ジャンルに属するオタクが何をどう考えているのかその平均値が
何なのかということもさっぱり見えてこないし、
実はすでに言語的にもお互い共通のものをもたないのではないかという絶望感すらもある。
なにより行き着くところ「萌え」とは個人の嗜好そのものであり「何にどのように萌えるか」も人それぞれだし、
百人いれば百人分の「萌え」に対する解釈の仕方、感覚があるのは当然の帰結だ。
ってなところで、「萌えについて考える」として、じゃあどうするか?と迷ったあげく、
しょうがないから自分自身の立っている位置を基準にそこから見えるオタク的かつ萌え的現況を
自分なりの視線と価値観で整理して、
間違ってることを承知の上で勝手に解釈して見て、他人の反応でもうかがってみようかな?
というのがこの文章の目的というか出発点です。
よって基本的に断定口調で書きますが、それが絶対だとは私自身も思っていないし、
今ココで書いたことも後で考えが変わる可能性もありうるということをご理解ください。
またこの文はガンダム以降エヴァ以前のアニオタによるもので、
ギャルゲー、エロゲ−を中心とする新世代の解釈はまた別のものになると思われます。
「萌える」の成立過程
ネットをあさればでるわでるわ諸説紛々。
「イデオン出典説」や「恐竜惑星鷺沢萌説」「美少女戦士セーラームーン土萌ほたる説」、
パソコン通信上での「燃える→萌える」の誤変換説などなど。
私自身は「萌え」あるいは「萌える」という言葉をはじめて目にしたのは95年末パソコン通信をはじめたころ
(そうちょうど「エヴァンゲリオン」が盛り上がりを見せ始めたころ)になる。
草の根
BBSのアニメ板ではちょうど「燃える」と「萌える」が入り乱れて使用されており、
私個人としては「燃える→萌える」の誤変換というのが実体験としてあるため、
それが自明のこととして特に気もかけてこなかったので、
これほど語源に関して諸説入り乱れているというのは、驚きではあった。
しかし、この「萌え」という言葉をいつ耳にしたり目にしたりしたか、
それは年齢や実体験の個人差がによって当然生まれてくることで、
また、インターネットはオタクだけの巣というわけでもないので、その語源をどう考えるか、
その理解の仕方にもかなり差があるのも当然のことだろう。
ということでここでは「燃える→萌える」の誤変換であるということを前提として話を進めます。
私の実体験では「萌える」の前身となった「燃える」のパソコン通信上での用法は
当初、ロボットアニメやバトルもののお約束のアツイ展開やかっこいいシーン、
決め台詞に「興奮する」「気分が盛り上がる」など
日常会話として「野球観戦して燃える」など十分意味のとおる局面で使われていたように記憶している。
漫画家の伊東岳彦が「宇宙英雄物語」の作中で「燃える展開!」
というような言い回しで使用していたことから、
その言い回し自体はオタクの間でもそれ以前からあったのだろう。
ところがその「燃える」がパンチラやシャワーシーン、ラブコメのお約束展開など
女の子の可愛さやエロスを強調した描写にも「(性的に)興奮する」という意味で
「燃える!」という風に使われ始め、
いつしかそれが「萌える」の誤変換と結びつきを強くし、
かっこよさやアツさに対する興奮をあらわす時は「燃え」を、
女の子のキャラの可愛さに興奮する時は「萌え」を使用するように分かれていったのではないかと
私は見ている。
主として「女の子キャラから受ける快感、快楽」を指す言葉というのが妥当だろう。
当初「萌える」は、ストーリー展開やシュチュエーション、キャラクターの描写に対するリアクション、
感想の言葉として使われていたが、
それがいつしか、自分を常に「萌え」させてくれるキャラすなわち自分の好きなキャラへの愛情表現、
愛情告白として「アヤナミ萌え〜」といった形で
キャラ名を前につけて使用するスタイルが確立していった。
しかし、この「萌え」という言葉が頻繁に使われ始めると一部では、嫌われる傾向も出てきた。
特に掲示板上で真面目な作品批評や感想を読んだり書いたりしたいと考えている層からは、
何も考えずに「萌え萌え」言ってるだけで書き込みに内容がないと批判を浴びた。
(要するに使ってる人間頭悪すぎ、恥ずかしいからやめろやてことですな)
とはいうもののアニメを見てパソコン通信でコミュニケーションを交わす際に
キャラの行動や台詞、仕草や性格など、
どこそこがいいということを説明した上でだから自分はこのキャラが好きなのだということを
順序だてて説明するのは苦労が多い上に、
それを読まされる人間にとってもさほど面白い物ではない。
それらを全てはしょって「萌え〜!」と叫べば、周りは「ああ、こいつはこのキャラが好きなのね」
と一発で了解してくれる。
しかも二次元のキャラに対して「好きだ」とか「愛してる」とか言う直接的な言葉を吐くのは
気恥ずかしいところがある。
しかし「萌え〜」といったときその意味はキャラに対する軽い好意から激しい思い入れ、
単なる条件反射まで幅広く曖昧な為に、
言葉を発した本人の真意を隠蔽し、その恥ずかしさも軽減してくれたり、
あるいはその「思い入れ」の強さを他者に否定されても、
クッションの役割を果たしてくれるという効果をもっていた。
その為に、非常に使いやすく、それゆえ安易に使われ軽薄で重みのない言葉として
逆に作品やキャラを本気で好きな人間からも疎んじられる局面が生まれてしまった。
それでも「〜萌え!」が使われつづけた。
それは、一方で議論を好む層は議論や批判の末お互い罵り合いにまで発展して
掲示板の場の雰囲気を悪くすることで嫌われる傾向もあり、
また周りの空気が読めずに一方的にキャラへの思い込みを書き込んで、場をしらけさせるということが、
現在のように掲示板が作品やファンごとに分かれていなかった当時は、しょっちゅう見られた。
そのため「〜萌え!」は「自分はこのキャラ好きなんだけどあんたらはどう?」的な場の空気をつかんだり、
お互いの好みを確認しあい、好きなもの同士で語り合うためのきっかけ作りとして
挨拶的の役目も果たしたのもまた事実だ。
このようにコミュニケーションツールとして非常に便利であり
重宝されたために広く深く浸透し用いられることで、
単なる流行で終わらずに現在まで生き残っているのではないかと考えられる。

属性の発見
さらにこの「萌え」という言葉と「属性」という概念が結びつくことによって、
現在の概念としての「萌え」に至るのだが、
その前に「属性」とは何かを考えておきたい。
この考え方の起源も実のところはっきりとはよくわからない。
ただ「萌え」という言葉と発生時期が同じなのではないだろうか位のことしかいえない。
「属性」というのは、キャラの全体ではなく、例えばメガネや三つ編み、ショートカット、巨乳、貧乳、
といったキャラクターの外見的特長を示す記号的パーツに代表されるような
キャラを構成するデザイン、設定的要素、その共通性に思い入れを持つ傾向のことを指す。
もっと簡単にいえばショートで活発なの女の子とロングヘアでおとなしそうな女の子どっちが好みか?
という嗜好の問題を突き詰めていった結果、
メガネでショートで貧乳でちょっと気の強い委員長タイプの女の子が好きです
(メガネ属性+貧乳属性+委員長属性+ショートカット属性)という答えに行き着いたものが、
その個人の「属性」と呼ばれるものといえる。
属性はブルマー、スクール水着といったコスチューム、メイド、看護婦や教師といった職業的シュチュエーション、
妹や幼馴染といった関係性やシュチュエーションといったキャラ設定含みのものまで幅広い。
ではその「属性」がどこに由来されるものかと言えば、
それは膨大な数の漫画およびアニメ・ゲームの美少女キャラにある。
自分の好きなキャラの蓄積の中から、その共通性の発見こそが属性の発見である
「属性」という言葉を使ってはいるがぶっちゃけ何に性的嗜好を刺激させられ
フェティッシュを感じるかということに他ならない。
これがもっとも顕著に研究され表現された媒体が同人誌だったといえる。

アニメのエロパロはいまでこそお約束のように量産されているが、
その発端には、成人年齢に達したファンの目から子供向けのアニメや漫画を見たときに、
直接的なエロやセックスの描写がなくとも作品の中に垣間見える作り手側の無意識の内に
表出するエロスを感じ取り、それをパロディという形で拡大解釈し表現するという、
批評的行為という側面があった。(それもまた無意識的なものではあったのだが)
藤子・F・不二夫や宮崎駿の少女の描き方は直接的なエロ描写は一切なくても、
どう考えてもロリコンのそれではないかという邪推などはわかりやすい好例だろう。
また90年初頭から商業のエロ漫画雑誌では作者が同人界から多数排出され、
そこでは日夜作家自身の性的嗜好を探求し絵にして表現するという行為が繰り返されていた。
当初は作家自身も自分の「属性」に自覚的ではなかったが描いているうちに自覚的になっていった。
そこは作家自身がエロ漫画家であると同時にアニメ好きゲーム好きのオタクであったこともあるだろうし、
同時に読者もオタクであり作家の描くものを通して「属性」に目覚めたり、自覚したり、
といったことが進行していったのではないかと考えられる。
要するに数多くのアニメや漫画を見てきたオタクたちがそれら作品やキャラから感じ取ってきた
「自分がどこをどうくすぐられたら気持ちいいのか?」
「女の子のどこをどう可愛く、エロティックに感じるのか?」
その「ツボ」となる部分の探求の結果、得られた公約数、それがすなわち属性であり
オタクの間での自問自答の答えが、自覚化され自己規定されたものといえる。


ではもう一度話をパソコン通信にもどそう。
この「属性」という概念もオタク同士の間で認知され始め、
当然それはパソコン通信上でも己のフェティッシュな好みについて語り合い、
同志と情報を交換し合うということがおこり、
ここでもやはり「萌え」という言葉が同好の人間の存在を確認するために
「スク水萌え〜」「眼鏡ッ娘萌え〜」というった形で
その反応を待つことができる為にコミュニケーションツールとして、重宝することになる。
それまで、「リアクション」や特定のキャラへの「愛情表明」ということに使われていた言葉が、
自らの女の子やエロに対する趣味や好みを語り合う「性癖告白」の際にも用いられ、
その使用範囲は拡大していくことになる。
ここで初めて「属性」という概念と「萌え」というコミュニケーション用語が結びつき、
「属性」=「萌え要素」=「概念としての萌え」と、その意味と用途を拡大していくことになる。

「萌え要素」の確立

消費者たるオタクが自らの属性、「萌え要素」を自覚すると今度は、
商品の取捨選択の重要な基準として中心に置かれ、
その消費者のニーズは次第に商業作品のなかへも取り込まれていくことになる。
その過程がもっとも顕著に表れたのが、恋愛シュミレーションゲームいわゆるギャルゲーおよび
パソコン
18禁美少女ゲームいわゆるエロゲ−の世界だった。
恋愛シュミレーションゲームというジャンルを確立したギャルゲー、
言わずと知れた「ときめきメモリアル」であるが
PCエンジン版が発売された当時はいまだ「萌え」という言葉も属性という概念も成立する前だった。
ときメモ以前にもギャルゲーと呼ばれるものはあったが、
既存のゲームシステムに女の子のキャラをくっつけただけのクソゲーの代名詞のようなものだった。
パソコンゲームでおそらく「ときメモ」が影響を受けたであろう「プリンセスメーカー」や
「卒業」などがあっただけで、作り手にとってそのキャラデザインや設定、シナリオなど
今現在ほど客のニーズや流行を考えて作られたとは考えにくく、
ほぼ手探りで作り手が「かわいい」と考える女の子を造形したのではないかと考えられる。
しかしそのキャラクターデザインは当時の平均レベルを見てもお世辞にも上手いものとはいえず
現在で言うとこの「萎え」に属する絵柄だった。
(プリメの赤井孝美、卒業の竹井正樹とは比べようもなく、「ときメモ」は絵に対して無頓着だったとしか思えない)
しかし、その絵のまずさを乗り越えて「恋愛シュミレーション」という未知のジャンルのゲームを
プレイした好事家たちが、そのゲーム性の高さとゲームのキャラに思わず「トキメイてしまった」ことから
次々とハマり、「ときメモ」支持者へと変貌していった。
「ときメモ」を知りギャルゲーが与えてくれる快楽に目覚め、
よりよいギャルゲー、ポスト「ときメモ」を求めてオタクは次々にギャルゲーを渡り歩くことになる。
代表的なところで「トゥルーラブストーリー」「センチメンタルグラフィティ」などが上げられるが、
その共通スタイルは、
最低でも
3人多くて12,3人の女の子がひとつのゲームの中に用意されていることである。
「ときメモ」の人気が頂点を迎えると、ファンは作品以上に登場するキャラのファンとして振舞うようになる。
恋愛シミュレーション自体がゲームキャラとの恋愛がテーマになっているのだからプレイヤー一人一人が
お気に入りキャラを見出すのは至極当然の結果ではあるのだが、
ギャルゲーを何本かプレイしていけば、はじめから自分の好みのキャラを見定めて
プレイしそのキャラを「落とす」ことを前提に攻略にかかるようになる。
その過程がまさに自らの好み、「属性」の意識化に拍車をかける契機となっている。
複数の作品で複数の女の子の選択を何度も迫られるのだから、
あるゲームで眼鏡のキャラがいいと思ってしまった人間は他のゲームでも同じ快楽が味わえることを
期待して眼鏡を選ぶようになっていく、
単純に言えばそういうことだ。
なによりギャルゲー、エロゲ−はひとつの作品に複数人のヒロインを用意せねばならず、
それぞれ個性を持たせ差別化を図らねばならないため、
「可愛い女の子」、受け手が求めているキャラを創造するためにあらゆるバリエーションが試みられ、
消費者の審判はキャラの人気の反応としてダイレクトに現れ、
その反響はメーカーに届きメーカーの側はさらにキャラ設定や造形のノウハウは蓄積され
次作へ生かされる。
無論そこにはクリエーター側からの発信がまずあったが、
そこから客のニーズにそった「受ける」パターンとして淘汰されることになる。
漫画やアニメに比べて、ギャルゲーやエロゲ−は購買層がはっきりと固定化され、
且つ購買者の購買目的の一番上に常に「美少女キャラ」が置かれている。
「萌え」という価値基準に自覚的になりだしたオタクの消費傾向に
ビビッドに反応しえたジャンルとして、90年代後半から現在にかけて最もオタクの中心ジャンルに
のし上がったのも、今から見ればそれは当然の結果だったかもしれない。
またエロゲ−においては若いジャンルであったためよりオタクや同人の側に近い作り手(主に絵描き)の
手によって創造されたことにも関係するのだろう。
いずれにせよオタクの嗜好性の変化と恋愛シミュレーション、美少女ゲームの登場が相互に作用し合って
現在のメーカーと消費者の両者で「萌え」という概念とそれを取り巻く状況が先鋭化していったことは、
まず間違いのないことだ。

文脈によって変化する「萌え」の意味の分類
では、以上のことを踏まえて「萌え」という言葉の持つ文脈的な意味を整理してみたい

@      作品の表現から受ける快感へのリアクションとしての萌え(「萌える」「〜萌え!」)
A      特定キャラに対する愛情表現
B      絵描きや漫画家など作り手の嗜好、表現の発露(作り手としての萌え)
C      オタクの自己言及による嗜好の自覚化、記号化(属性、萌え要素)
D      評価基準、選択基準(受け手としての萌え)
E      Cをメーカーが企図に基づいて戦略的に取り入れた萌えげー、萌えアニメ(メーカーとしての萌え)
漫画、アニメ、などの他架空のキャラクターから享受される快感を表すコミュニケーションのための言葉として
まず使われ、その「快感」をさぐる自己言及の結果「属性」が発見、自覚され、
作り手はそれを表現の一手段とし、また受け手は選択、消費の基準とし、同人、美少女ゲームを経て、
より大きなマーケットでメーカーから重視されそのニーズにこたえる形で作品が作られるにいたる。
簡潔にまとめればこんなところだろうか。
よく「萌え」と一言で片付けられてしまうが、その言葉の発生と変遷をたどってみれば、
それを構成する意味は多重で、指し表す対象と使用される文脈によって、変化してしまう事がわかる。
その為に「萌え」という言葉の意味はそもそもが曖昧な上に複雑化して、その定義を難しくしている。
分けて考えねばならないのはあくまでリアクション、快感そのものを意味する場合と
その快感を与えてくれるもの
つまり萌え要素や作品を指す場合があるということだ。


ここまでは、あくまで文脈上の意味である。
では、さらにアニメとゲームの媒体の特性、差異を含めて、「萌える」という行為が
どのように成り立っているか考えてみよう。

漫画・アニメとゲームの媒体としての差異
あずまんが大王がアニメ化されたとき、放映開始当初、原作ファンからは「イメージ」と違うと不評を買った
あずまんがはアニメとしては作画的にも演出的にも水準でみれば高い方であるにもかかわらず、
そういったった批判を受けてしまった。
漫画原作ものではこういった自体は良くあることで珍しいことではない。
相当出来がよく原作に忠実に作られていても、熱心な原作ファンからは必ず「イメージと違う」
という反発が出るのは、結局読者が漫画を読んで作り上げたイメージが強固で
そのイメージとアニメが齟齬を起こすからだ。声優の演技に対する違和感は端的な例ではあるが、
「あずまんが大王」では、ギャグの間、タイミングという問題も発生している。
漫画を読むとき100人いれば100通りの間で読み、
おおさかのボケを可笑しく感じさせる間、よみのツッコミのタイミングは常に読者にゆだねられているが、
アニメではその間、タイミングは、演出家にゆだねられている。
故にどんなに演出家が最適の間で演出をしていたとしてもコンマ1秒の差で
違和感を感じる人間は必ず出てくる。
この原作とアニメのイメージの齟齬の原因は、漫画とアニメの与えられている情報の差にある。
アニメは色や動き、声、音楽、前述の間が情報として最初から用意されているが漫画には、それがない。
しかし、だからこそ与えられていない情報の部分をイメージで補うことが許されている。
仮に歌手を主人公とした作品があったとしてアニメは、最初から曲も歌う声優も用意されてあるが、
漫画は紙から音楽を奏でることは出来ないので、
漫画家は絵と記号でそれを表現し読者はそれを頼りに主人公の歌う歌をイメージできる。
同様にアニメよりも漫画、漫画よりも小説のほうが読者の想像の余地が大きくなる。
くどくどと遠回りに書いたが何をいいたいかといえば、
一度に与えられる情報が多ければ多いほど受け手に与えるキャラのイメージは固定化され、
受け手がイメージを膨らます余地が少なくなる。
逆に情報が少ないキャラの方が、受け手がイメージを膨らませる余地が限りなく大きいということだ。
ゲームにおいてはファミコン時代のグラフィックは漫画にすら及ばなかったが、
ハードの進化と
CG技術の向上によってアニメを遥かに超え、実写に迫るところまで来ている。
ただしいわゆるギャルゲーは基本的に限られたパターン止め絵の組み合わせと音声、テキストで
構成されるのが普通で、「ビジュアルノベル」というジャンルが示すように、
その表現力、情報量はアニメと漫画と小説の中間に位置しているといっていいだろう。
だが何よりゲームが、アニメや漫画と違うのは、プレイヤーが自らキャラを操作出来るという
インタラクティブ性にあり、物語に参加できるというところにある。
RPGやアドベンチャーゲーム、ノベルゲームなどがプレイヤーの行動や選択肢で
物語が変化するということにとどまらず、
例えばシューティングゲームなどでアニメや漫画のように物語が語られることがなくても、
ゲームを構成する設定や世界観が用意されていたり、
格闘ゲームのキャラにそれぞれ闘う理由付けがなされ、
それぞれエンディングが用意されていたりと、物語としては断片的でも、
プレイヤーがそれら与えられた少ない情報から
想像でイメージを膨らましてゲームの持つ世界観を楽しめるように仕向けられている。
要するにゲームには受け手が物語に参加し、想像する余地が最初から用意されているが、
アニメや漫画にはそれがないということだ。
それに加えてギャルゲーに関していえばその表現力、情報量はアニメに若干劣る分、
プレイヤーが想像力を働かせることの出来る部分がより多いといえる。

ハーレム系ラブコメと恋愛シミュレーション・ギャルゲー
では、話を美少女キャラ中心のアニメとギャルゲーに戻そう。
80年代初頭アニメファン=オタクの興味はガンダム系のリアルロボットモノにあったが一方で、
「うる星やつら」「ミンキーモモ」といった美少女・ロリコンへの傾倒も顕著に表れ、
そういったオタクの需要を当てこんで80年代後期から90年代初期には
いわゆる「メカと美少女」を売りとした
OVA作品が
有象無象に作られ、その傾向は現在も続いている。
既にこの時点で、オタク=アニメファンが「自分達がどこをくすぐられれば喜ぶのか」という自覚と
それを意識したメーカーサイドの戦略というのは完成されていて、
ギャルゲーや「萌え」という言葉の登場前夜から、
ある程度オタクマーケットにおける売れるパターンは決まっていた。
(そもそも初期のギャルゲーの存在自体がそういった美少女キャラを興味の中心に置く
アニメオタクの需要を意識して作られた面がある。)
そのパターンのひとつが、「うる星やつら」「ああっ女神さまっ」「天地無用!」に代表される
主人公のちょっとダメ男くんがひょんなことからナゼかモテモテになってしまうというハーレム系ラブコメである。
このパターンを踏襲した作品に、受け手はその主人公の羨ましすぎる環境にあこがれ、
登場する様々な魅力をもった美少女キャラに感情移入してしまうのだ。
ところがハーレム系のラブコメでは、主人公には大概、意中のヒロインがいて
最終的にそのキャラと結ばれて結末を迎えてしまうのが常で、その物語は覆しようがない。
主人公にどんなに感情移入して同化しても、
自分が一番好きな脇キャラとは結ばれないというジレンマがある。
それを解消する為にアニメでは、主人公を優柔不断にして結末を永遠に先送りにして
物語をループさせるという方法しか取れなかった。
が、しかし恋愛シミュレーションゲームは、自分がそのハーレムの主人公となって、
自分が一番好きなキャラとのエンディングを作ることが出来るというオタクにとって
長年の夢、願望をあっさりかなえてくれた。
まさに恋愛シュミレーションゲーム「ときメモ」はオタクにとって福音だった。
このゲームのインタラクティブ性こそが、キャラクターをより身近な存在と感じさせ、
感情移入をより強いものとし、
美少女ゲームが人気を博す最大の要因だったのではないだろうか。

「センチメンタルグラフィティ」から「シスタープリンス」へ
ギャルゲーに革命をもたらした「ときめきメモリアル」以降二匹目のドジョウを狙って
続々と新しいギャルゲーが作られた。
その中で代表的な作品として「センチメンタルグラフィティ」(以下「セングラ」)があげられるが、
このゲームの人気、盛り上がり方は、「ときめきメモリアル」の時とは少しちがったものだった。
「セングラ」が電撃G’sエンジン誌上(現電撃G’sマガジン)で製作が発表されると、
洗練された流行のキャラデザインに人気があつまり、
ゲーム発売以前からそれぞれの登場キャラにファンがつき、
関連グッズも数多く発売されそれが売れに売れた。
度重なる発売延期でファンをやきもきさせながらも、
それがまた飢餓感を煽り逆に盛り上がりを見せる結果となって、
発売直前にはその人気は頂点を迎えることとなった。
ところが満を持して発売されたゲーム本体の評価は散々で、
その人気は一気に冷めていくという、稀に見る現象を引き起こした。
その原因は、発売以前に小出しにされるキャラのプロフィールや設定、イラストによって、
ファンの間でキャラクターのイメージが一人歩きし完成されてしまったにもかかわらず、
本体(原作)と成るべきゲームがそのイメージとずれ且つゲームとして面白くなかったことに求められる。
要するに映画などで予告編を見て受け手が想像した内容に映画本編が負けてしまったようなものだ。
前評判や期待の高い作品にはおこりがちなことでそのこと自体は決して珍しいことではないのかもしれない。
しかしギャルゲーの歴史のごく初期の頃は、雑誌でギャルゲーの特にそのキャラの情報が
事前に大量に扱われることはほとんどなく、
とりあえず買ってプレイしてみなければキャラについて知ることは出来なかった。
(「ときメモ」もキャラ人気が高まりグッズが大量に売れまくったのは同じだが、
それは当然ゲームの発売以降、ゲーム自体に人気が集まった結果に過ぎない)
だが、現在のG’sを開けばわかるが、新作ギャルゲーの紹介のほとんどがキャラの紹介に費やされている。
ギャルゲーをプレイし購買する層は、ゲームの発売前に露出する複数の女の子のキャラ設定を元に、
自分好みのキャラ、即ち自分の属性に適合した萌え要素を完備したキャラを選び想像を巡らせる
ということを日常的に繰り返している。
その為、「物語」や「ゲーム」という装置に頼らなくとも自分で妄想を膨らませることで、
キャラに感情移入できる訓練が無意識的になされているのである。
つまり「セングラ」はその過程を経て人気を獲得した作品だった。
そしてその後しばらくして電撃G‘sで「シスタープリンセス」が始まる。
この「シスプリ」は読者参加企画としてスタートし、
毎回、キャラのイラスト、プロフィール、ショートシナリオを連載していくというのがメインコンテンツで、
「セングラ」のようにゲームの発売は最初の時点では企画されていなかった。
つまり「ゲーム」という原作やゴールを設けずに、読者自身にそれぞれキャラのイメージを膨らませ、
ファンとなってもうらうことを最初から目指していた。
ギャルゲーの断片的な事前情報だけでキャラのイメージを膨らませ、
感情移入することになれた読者の存在というギャルゲー専門誌の地の利を生かし、
「シスプリ」はファンを獲得、次第に人気をあげ、後にゲームも発売され、
コミック、アニメ化へとメディアミックスを順調に広げていくに至る。
過去どんな漫画、アニメ、ゲームでもまず作品の人気が出ることによって、キャラ人気が高まり、
それを原作とするメディアミックスが展開されるというのがキャラクタービジネスの常道だったが、
「シスプリ」は従来のような漫画、アニメというようなバックボーンとなる原作を持たず
断片的に存在する設定と「キャラクター」のみを本体として
メディアミックスをするというまったく新しい形態を生み出し成功した。
アニメや漫画なら物語性の面白さや完成度、
ゲームならシステムやゲーム性といったものが作品評価の基準とされ、
その良し悪しが、作品の評価、人気とともにその作品のキャラへの人気に影響する。
「ときメモ」は必ずしもその絵柄のセンスは悪く見た目では明らかに損をしているが、
ゲームをプレイすることで確実にプレイヤーはキャラに魅了されファンとなってしまう。
つまりプレイヤーはゲームとしての完成度によってキャラに感情移入し萌えたことになるが、
「セングラ」「シスプリ」は「ゲーム」をプレイすることなく消費者が
そのキャラのイメージを膨らませて萌えていることになる。
「セングラ」は結果としてゲーム本体の評価が散々だった為ファンは離れてしまった。
が、その出自がギャルゲーですらない「シスプリ」は常にキャラクター性のみが評価の対象とされている。
ここではストーリー性やゲーム性という価値観は最初から評価の対象として切り離されているのである。
故に「シスプリ」の人気振りを理解する上で、アニメやゲームの出来云々に対する評価は
何の意味もなさない。
まさにキャラクターのみに特化された究極の萌えキャラ供給システムといったところだろう。
そしてこの「キャラクター性」のみが消費者の興味の対象とされ、
価値基準、消費の動向を左右する状況は、
すでに「シスプリ」だけのものとは言えず、あらゆるジャンルの作品において適用されつつある。

立ちから萌えへ
このことは既に東浩紀によって「立ちから萌えへ」(参照・東浩紀公式サイトよりhttp://www.t3.rim.or.jp/~hazuma/texts/tachikaramoe.html
指摘されたように、
消費者が、かつての漫画、アニメではストーリーや世界観、
さらには作り手の作家性や技術・センスによって、
「キャラが立つ」ことで初めて作品およびキャラに感情移入し、「萌える」という過程を経ていたのが、
その過程をすっ飛ばして、消費者自身の妄想や解釈、
イラスト、同人誌やショートストーリの生成とコミュニケーションによって
作り手の手を離れたところで一人歩きしているという状況が生まれている。
その動きはネット上で顕著に現れ「えここ」(エコアイス)「偽春奈」、
といった企業公共団体のマスコットキャラやゲームですらないキャラが
「萌える」キャラとして人気を博す自体も生まれている。
「ときメモ」のキャラに「萌える」ことと「シスプリ」のキャラに「萌える」こと、
同じ「萌える」という言葉を使いながらも、その「萌える構造」は、明らかに違うものだ。
では以下にそれを整理してみよう。
@      作品およびキャラの完成度が高く、作品、ストーリーや世界観にのめり込むことで萌える。
    (キャラ立ち感情移入型)
A      絵やデザインのセンス、萌え要素の配列に萌える(条件反射型)
B      断片的な設定だけを頼りに妄想イメージを膨らませる(自己妄想型)
@は従来の漫画、アニメにおいて「萌え」という言葉が生まれる以前から存在した作品,
キャラへの接し方と同じで、キャラの人気は大概、キャラの魅力だけでなく
ストーリーの面白さも含めた作品の完成度によって左右されるのが普通だった。
ギャルゲーとしては「ときメモ」「
To Hert」などでゲームのプレイを通して作品やキャラにハマるのは
むしろこちらに属していると言っていいだろう。
しかしそれ以降萌え要素の記号化、自覚化が進みで、
断片的な設定と記号性に富んだイラストさえあれば、
過去に消費してきた作品の膨大な記憶のデータベースの引用から、
類型的なキャラやシュチュエーションに条件反射的に好感を持ってしまう。
これfがAの「条件反射」的な「萌え」だが、さらにそこから一歩踏み込んで
断片的なキャラの萌え要素・記号性、設定だけで、
足りない物語を主体的に想像で補うことでキャラへの感情移入を強めていく、これがBの自己妄想型だ。
ここで注意しなければならないのは@はリアクションとして「萌えている」
つまり対象に対して受動的であると言えるが、
Bは主体的な行動として能動的に「萌えている」という大きな違いがあるということだ。
@はオタクでない一般的な消費者でも普通に漫画のキャラに感情移入したり
好きになったりすることはあるので、
「萌え」の初歩段階ともいえる。
とするとABはより進化した第二段階、第三段階の「萌え」の形態と呼べるだろう。
つまりBはよりオタク的な狭義の「萌え」の形態と位置付けられる。

「えここ」と「シスプリ」を分ける差。
さてここまでの流れを整理すると、オタクはより物語的背景が少なく
断片的な情報で構成されるキャラクターの方が、
想像の余地が大きく、主体的に「萌える」ことが出来る。
即ちゲームのキャラクターよりも「えここ」のようなマスコットキャラクターの方が
より「萌える」という結論に落ち着いてしまうが、実際は違う。
そう単純なものではないのだ。
ご存知のように「えここ」は東北電力の「エコアイス」の宣伝マスコットキャラとして世に出、
このキャラが「可愛い」とネットで評判を呼び、さまざまなアマチュアのオンラインCG作家たちの手によって
イラストが描かれ人気を獲得した。
それを発見し拡大したのはあくまで同人作家やファンによる主体的な活動によるものであった。
しかし、「えここ」のオフィシャルの情報が少なく引っかかりとなる萌え要素も多くはない。
その為に自らイラストや同人誌を描いてイメージや世界観を広げ、受け手であることよりも発信者、
作り手となる必要がある。
確かに与えられている情報が極端に少ない為、妄想・想像の余地は大きいが、
ファン同士で共有できるキャラに対する共通認識も含めてお互いのコミュニケーションとイラストなどの
「創造」が要求される。
それだけに労力負担も大きく「えここ」に萌えるためのハードルは高い。
要するに極端に情報が少なすぎると今度は妄想が困難になってしまうのだ。
「えここ」がオタクマーケットとはなんら関係のない企業の宣伝マスコットだったために、
与えられる情報が極端に少なく一定以上の広がりはなかった。
それに対しアニメ化までされた「デ・ジ・キャラット」は「ゲーマーズ」のイメージキャラとして作られたため、
「えここ」同様物語背景や細かい設定は、当初は用意されていなかった。
が、企業側が断続的にイラストや4コマといった形でオフィシャルの設定、情報を小出しにしてくれたので、
それを材料に妄想を膨らませることが容易に出来る環境があった為に
次第に人気と認知を高めていくことが出来た。
つまり、想像、妄想を膨らますにもある程度の情報量(継続的な)が必要ということだ。
究極的にいってしまえば「妄想による能動的な萌え」の最たるものは、
自分で絵を描き設定を起こして自分でキャラを作って物語を作ってしまうことである。
実際それを実行しているのが創作系の同人作家であるわけだが、
みんながみんな自分の中の妄想だけで自らの「萌え」を表現できるわけではない。
結局、アニメ、漫画、ゲームの中から情報という刺激を得て(リアクションとして受動的に)萌え、
その刺激からさらにイメージを膨らましてまた(主体的に)萌えるという循環が行われているのだ。

オタクは状況や作品に応じてキャラ立ち感情移入、条件反射、自己妄想による「萌え」を
適宜使い分けているということだ。
「物語」によってイメージが固定化されすぎず、マスコットキャラのように極端に情報が少ない為に
イメージを膨らませづらいわけでもなく、適度にバリエーションに富んだキャラクターの設定、プロフィール、
デザイン、萌え要素も十二分に用意され、毎月新しいイラストとショートストーリーが供給され
感情移入と想像を容易に出来る至れり尽くせりの環境が整えられている。
それが「シスプリ」であり、圧倒的な支持を受けるのは、単に「妹属性」が人気を博しただけでなく、
オタクが「萌え」を生みやすい理想的な環境が整えられた結果なのだろう。


ギャルゲーのアニメ化は萌えるか?
さてシスプリが「断片的な設定だけを頼りに妄想イメージを膨らませる(自己妄想型)」の典型であり、
且つオタクが萌えるために最も適した環境を構築したコンテンツであることは分かった。
では、アニメはどうだろうか?
最近では、ギャルゲーやエロゲ−の流れを意識したアニメが作られるようになり、
人気の高いエロゲ−&ギャルゲーは次々とアニメ化されている。
しかし、それらの作品が本家であるギャルゲーやエロゲ−に太刀打ちできているか?
といわれれば、その答えは否としかいいようがない。
先述したようにインタラクティブ性こそが、美少女ゲームが人気を博した一因であるのに、
流行の萌え要素や萌えるデザイン、記号やパターンを並べ替えたものを作っているに過ぎず、
その作品センスも、「うる星やつら」の頃から存在するドタバタラブコメとその根本は
全くといっていいほど変わっていない。
また美少女ゲームのアニメ化も盛んであるが、
そもそもが、マルチシナリオ、マルチエンディングが基本のゲームを
強引に一本の物語にしようとしてしまう為に、どうしても無理が出てしまっている。
「シスプリ」のアニメ版第一作では「12人の妹がいてその妹全員がお兄ちゃんにラブラブ」という状況」を
旧来の物語のシステムの手順を踏んで、
一人のお兄ちゃんに12人の妹が突然出来るという不条理コメディとして作られた。
ここで注意したいのはアニメ版が1対12人のハーレムという状況を
一度にひとつの物語としてしか提供し得ないことだ。
これがゲーム版なら1対1の物語を12個×エンディング数を提供してくれるし、
12人妹がいても物語としてそこに踏み込むことがない上にプレイヤーはまさに
「お兄ちゃん、兄貴、兄くん(以下略)」なので感情移入もしやすい。
しかしアニメでは兄役は物語の主人公として画面にかかれている男であり、
本来兄でなければならないプレイヤーは
TVの前でそいつを傍観していなければならない。
ゲームが単にハーレム願望を充足させてくれる装置としてだけではなく、
プレイヤーのプレイスタンスによって他のキャラを無視して1対1の純愛願望も充足できる。
これが強みなのだ。
つまり複数の女の子と萌え要素を同じように配置して恋愛物を作ってもアニメでは
到底ギャルゲーにはかなわないということだ。

アニメにおける妄想の萌え
これまでの流れをまとめると、物語性が強固で、想像、妄想の余地が介入しづらいアニメは
自己妄想型には不向きなメディアであると結論付けられてしまう。
しかし「断片的な設定だけを頼りに妄想イメージを膨らませる」ことがアニメにおいて不可能なのか、
といえばそんな事はない。
確かにゲームのようなインタラクティブ性を持たないため直接物語に介入したり、参加したりは出来ないが、
いったん作品から離れれば与えられた情報を解体、再構築し、膨らませることは出来るし、
足りない部分を補ったり付け足すことも出来る。
また、決定付けられた物語やキャラの関係性を自己流に深読み解釈し、アレンジ、改変することは
可能である。
基本的にパロディ同人誌はそういった行為の所産であり、それがもっとも盛んなのが「ヤオイ」の世界だ。
また、ストーリーが強固といっても、作品によっては、完成度が低く描写が薄かったり矛盾が多かったりで
ツッコミどころが多く、妄想や想像の余地は生まれやすいものが過去ヒットしてきたという経緯もある。
その他にも出番の少ない味のある端役などは、
情報が少ない分だけ、自由に想像を膨らませることが出来る。
殊に子供向け作品や少女漫画を原作としたアニメは、表現上、直接的なエロは表現されないが、
ちょっとした仕草や表情、台詞回しやキャラの関係性から、性的な匂いを感じ取り、
受け手の側が際限なく妄想を膨らませることが出来てしまう。
まさに「断片的な設定だけを頼りに妄想、イメージを膨らませる」のと同じだ。
ただ違うのはキャラのプロフィールなどの設定という情報ではなく、作品内での表現、
描写を頼りに妄想を膨らませているという点だ。
なんのことはない「キャラ立ち感情移入→自己妄想」という段階を踏んで最終的には
「能動的に萌えている」ということで、
実のところアニメもゲームもその過程が違うだけで、いきつくところは同じだったのである。
しかし、ゲームがそのインタラクティブ性によって、プレイヤーがそうと意識しなくても
想像力を膨らませることが出来るのに対して、アニメは非インタラクティブである為、
受け手が自ら主体的に想像力を膨らませない限り、物語を改変できない。
つまりアニメや漫画で「能動的に萌える」ためには、受け手に主体的で能動的な想像力、妄想力が
要求される。
それに対しゲームはその想像、妄想をゲームシステムが肩代わりして自動化してくれている、
つまり「能動的に萌える」為の難易度がアニメよりも低いということだ。

「萌えの到達点」
「萌えの成立過程」で述べた通り、ギャルゲーやシスプリあるいは、ハーレム系ラブコメアニメなどの
「萌え」をオタクに供給することを目的に作られた作品が登場する以前、現在「萌え要素」と呼ばれる
情報が各作品に断片的に分散、内在していた。
それをオタクが発見し妄想を膨らませ、集約させた結晶が「萌え目的の作品」に他ならない。
故にそれはより多くの萌え要素をを含んでいる。さらにギャルゲーはそのゲームの持つ性格から、
プレイヤーに負担をかけることなく、妄想、想像を膨らませ「能動的に萌えさせてくれる」萌えの
原石だった過去のアニメは、その純度も低く、それを取り出すのに多大な労力を必要としたが、
それを磨き上げた美少女ゲームは、純度が高く労なく人々を萌えさせ魅了する。
萌えを望むオタクの為に萌え要素を集約させ、萌えるための環境とキャラを構築した「萌える作品」、
それは確かに「萌え」の到達点に違いない。
しかし、それは本当にオタクにとって幸福なことなのだろうか?
「能動的に萌えさせてくれる」とは受け手が作品に対して「受動的に萌えている」ことと
同義ではないのだろうか?
「能動的に萌える」ことがより狭義の「萌え」であるとするならこの定義では自己矛盾を起こしてしまう。


世代差、個人による萌えに対するスタンスの差
非オタクである外部からのイメージでは、おそらくシスプリや美少女ゲームのようなものが目につきやすく
いかにも「オタク的」で「萌え萌え」なものとして映るだろうが、
「美少女キャラ」=「萌え」というような理解はあまりに乱暴すぎる。
オタク的現状を見たときそれがマーケットを左右しているのも事実であり、
「萌え要素」が集約されたそれら作品は狭義の「萌え」としてくくってしまうことも可能だ。
しかしそれは現象面として目に付きやすいだけで、必ずしもすべてのオタクが萌えゲー&萌えアニメを、
ただ受動的に消費しているというわけではなく、そこには主体的、能動的な行為が働いている。
また少女漫画、幼児向けアニメ番組、マスコットキャラクターなど必ずしも作り手がオタクに受けるように
企図されて作られたわけではない作品にも食指をのばし、
「萌えている」オタクも一方で存在しているのである。
オタクは作品に触れた時に、瞬時に「萌えるか、萌えないか」を感覚的に判断している。
それが基本的にどういった心理的回路、価値基準で行われているかは、
その人個人の嗜好と過去に消費してきた作品の蓄積による。
それは、萌え要素や記号をふんだんに取り込んだ作品であろうと「萌え」をまったく意識しないで
作られた作品に対してであろうと同じだ。
「萌え記号」が並んだからといって常に萌えるかといえば、そう単純なものでもなく、
一見「萌え記号」に乏しく見えても激しく萌えてしまうこともありうる。
もちろんそこには個々人の属性という嗜好による価値判断も介入するが、
それが、その人にとって「受動的に萌える」かもしくは「能動的に萌える」為に都合のいい環境であるかに
よっても左右されるのではないだろうか?
「都合のいい環境」とは、その作品が、ゲームかアニメかという媒体であったり、
萌え要素の集約性であったり、その出自や人気といった作品外部も関連する。
いままで散々述べてきたようにアニメとゲームでは「萌え」を享受するシステムが異なる。
子供の頃からアニメを見慣れている人間と、ゲームに慣れている人間ではその感じ方も違うし、
ジャンルとしてどちらの表現媒体が好みかによっても分かれるだろう。
それがすなわち過去の蓄積と経験の差となって、同じ作品を消費しても
得られる快感の質と量に差が生まれてしまう。
同様に萌え要素の濃度の適量、つまりどのくらいあれば、妄想に火がつくか?という基準は、
それこそ個人差があるだろう。
多ければ多いほどいいという人間もいれば、一方で濃すぎると返って不快に感じてしまう人間もいる。
人によって濃いと感じるレベルが別の人間にとっては薄すぎると感じることもあるだろう。
萌え目的に作られた作品に対して、そのメ−カーの思惑にのって萌えるのに拒否感を感じる人間もいれば
それにあえて飛び込んで楽しんでしまえる人間ももいる。
またそういった作品の外的要因をまったく気にしない、
あるいは知らないでごく自然に受け入れてしまう者などそれも千差万別だ。
人によっては製作者の意図を捻じ曲げて萌えられる子供アニメの方が都合がいいかもしれないし、
自分の趣味に忠実に作られたエロゲ−の方が都合がいい場合もある。
そしてそれを分ける過去に消費してきた作品と経験、知識や価値観、
オタクとしてのスタンスの差が如実に現れてしまうのが結局のところ「世代」となってしまう。
今の萌えブームを形成したのはほぼ間違いなく1970年後半生まれを中心としたオタクで
90年代ギャルゲーの登場と隆盛を支えた世代といっていいだろう。
そして現在の1980年代生まれが、それの結果形成された市場を享受している。
今の
10代と20代ですら「萌え」に対する認識の差には大きく隔たりがあることは、間違いない。
なぜなら、この二つの世代は、ギャルゲーも「萌え」という概念もなかった時代を知っている世代と、
すでに気づいたら「ギャルゲー」も「萌え」という言葉もあった世代として分けられてしまう上に、
下手をすれば
10代の青少年は「初代ときメモ」も「セングラ」も知らずにいきなり「シスプリ」から
入っているかも知れないのだから。
そういった複雑な個々人の事情があって作品を選択している為、
例え同じ作品を好きでも「萌える」過程、形態(受動的
/能動的)には開きが存在している。
私自身は1970年中盤生まれなのでどちらかというとアニメ世代に属している。
である為に、ギャルゲーは「ときメモ」以前から体験してきていて、現在にいたるわけだが、
数はそれほどこなしていない。
そのため、正直な話、ゲームことにギャルゲーをメインとする世代の消費傾向、
「萌え」に対する感覚とも溝があるのではないかと思う。
なので、若い世代の感覚、「シスプリ」に萌えている感覚が、どのようなものかは結局のところ類推の域を
出ないというのが本当のところで、それは仕方のないことだ。


個人の主観から
そこで、ここからは、より私個人の主観から、現在の「萌え」をめぐる現状について説いてみたい。
自分は「萌える」とい言葉の登場以前からアニメオタクとしてほぼ完成しており、
当然、漫画やアニメ、それに登場する女の子に快感、快楽を求め、同様の理由で、
プリンセスメーカーなどのときメモ登場以前のギャルゲーにも食指を伸ばしていた。
「属性」という言葉も一般的ではない頃から、それまで見たり読んだりした作品から、
眼鏡ッ娘に執着を見せていた。
「ときメモ」初プレイで当然眼鏡の如月未緒から攻略。すでにこの時点で
属性による条件反射で萌える能力を身に付けていた。
漫画やアニメでは眼鏡ッ娘といえば脇役、端役で目立たない存在、ラブコメならば、
三角関係、四角関係の当て馬扱いの不憫な役どころだったわけだが、
そこが逆にいじらしく思い入れを増幅してくれた。
しかし決してメインに立つことのない日陰者の存在であり、
当時流行していた「セーラームーン」などの美少女キャラが複数出てくるアニメでもメンバーに
眼鏡がいないなんてことは、ざらだった。
世間は眼鏡に冷たかった。だがそれは自分にとって「世間に眼鏡ッ娘を認めさせてやる」という
エネルギーとなり、ネットで主張し同志を求め、語り、同人誌を売り買いし、消費の基準として行動し
、眼鏡好きと目される作家や眼鏡好きにとってたまらないキャラや作品を盛り立てるという行為に及んだ。
それらの行為そのものが自分にとって楽しかったし、
それも含めて「萌える」ということだったような気が今はしている。
おそらく眼鏡ッ娘だけでなく、「メイド」も「妹」もそれを属性として見出した出発点にいた人間は
同じなのではないかと思う。
そういった「属性」を発見主張した結果、現在の状況が生まれたわけだが、
それは主張した当人達にとって幸福なことだっただろうか?
少なくとも自分はこれが自分の望んだ結果ではなかったように思えてならない。
確かに今と昔では、比べ物にならないくらい、アニメでもゲームでも眼鏡ッ娘は良く見かける。
あまつさえ眼鏡をメインに据えたエロゲーやアニメすら登場し、
眼鏡ッ娘萌えにはたまらない環境が手に入ったように一見見えるかもしれない。
しかし一方で表面的に記号を取ってつけただけで
「属性」の何たるかを理解していないお粗末なものも出回るようになった。
それはむしろ憎むべき存在でしかない。
無論中には優れた作品、キャラも存在する。
だがそれも洗練はされていても、お約束の基本形の微妙なアレンジの繰り返しで、
新鮮で意外性のある魅力に欠ける。
わかりやすく例えるなら、ファーストガンダムが傑作であるにもかかわらず
放映当初マイナーだったが故にファンに愛され盛り上がり、
その結果続編がいくつも作られるようになるが、その度に商目的で当初の本質から離れ、
初代のファンにとって面白くない状況になってしまったようなものだ。
「受け手に負担をかけることなく、妄想、想像を膨らませ
能動的に萌えさせてくれる」現在の「萌え目的の作品」は楽チンで快適だが、
余計なノイズや負担の多い作品から自分だけの萌えるポイントを探し出したり、
自分の未だ気づかない属性を作品から発見したり出来る楽しみは
失われてしまっているような気がしてならない。

萌えの袋小路
ギャルゲーが、基本的にテキストと喜怒哀楽を表す数パターンの立ちグラフィック、
および音声という限られた表現手段しかないために、
そのキャラクターの感情表現はどうしても記号的になってしまう。
そこを文章・物語で補うことによって対処するならばいいが、
萌えを強く意識し目的とした作品の多くは
,それを補う為に受け手の側の萌え要素に対する条件反射、想像力に依存し、そればかりを過剰化していく方向性に進んで、
消費者をひきつけるキャッチーさにばかり力が入ってしまっている。
それを求めている消費者がいる一方で、逆に作品は狭い趣味嗜好に先鋭化し、
その属性外の人間には理解しがたいものになってしまっている。
美少女アニメも同様の現象が起こっていることで、自体はより深刻に映る。
物語に参加することの出来ないアニメがゲームに対して優位な点は、
その表現力と情報量の差にある。
さらにアニメは動画と映画のモンタージュ技法を駆使して、
シーンに応じた複雑な心情描写をその都度表現でき、
キャラの存在にリアリティを持たせることが出来る。
それによりキャラへの強い感情移入を誘うことが出来る。
つまり萌え要素という記号に頼らずとも萌えさせられるにもかかわらず、
それを放棄して萌え要素の過剰化によってのみ消費者をひきつける方向に走るのは、
自らの美点をドブに捨ててしまっているようなものだ。
また。属性は本来、人によって千差万別であるはずだが、市場原理の結果、
人気の高い「妹」や「メイド」という要素をもとに同じ記号のアレンジ、組替えた作品が数多く作られ、
まるでモビルスーツといえばガンダムしかないように「萌え」といえば妹かメイドばかりになってしまい
多様性が失われてしまっている。
それだけならまだしもメイドといえばその服のデザイン性は欧州貴族社会における召使の仕事着で
本来地味なものであるにもかかわらず、ガンダムがガンダムZZになるがごとく
華美なものへと変貌し、大衆化され本来その属性の持つ本質から離れてしまっている。
萌え要素を意識し過剰化する作品が出回りすぎた結果、
その過剰さと本質を見失っている状態に返って萎えってしまう。
そういった弊害が現在ここにきて起こっているように感じる。
少なくとも私はそう感じているし、その状況に飽き飽きしている。
今の状況がどう見え、どう感じるか、「萌え」に対する感覚スタンスは、おおよそ人によって違うだろう。
が、それが過去から現在の「萌え」の発見と進化をリアルタイムで経験してきた私なりの感覚だ。